所感

出戻りさにわの雑記

刀ミュ東京心覚、所感

 

ミュージカル刀剣乱舞-東京心覚-を見て私が思ったことの書き散らし長文です。

 

配信視聴

初日3/7、東京凱旋5/14ソワレ、大千秋楽5/23ソワレ

現地観劇

4/20ソワレ、4/21マチネ(愛知)

 

4/21観劇後に書いたふせったーの長文感想に少し追記したものです。

 

大千秋楽からもう結構経つのにいまだにロスがひどいので昇華のためにブログに移しておきます。

 

まだ思い返すたびにいろいろな感情が沸き起こってくるすごい舞台でした。

 

私から見た東京心覚を私自身に照らし合わせた、私が感じた主観的な感想、問はず語りの記事です。

 

※歴史詳しくないです。演劇も詳しくないです。

※東京心覚のネタバレがっつり、および他刀ミュ作品のネタバレも少しあります。

※観劇後のテンションのまま書いてるのでいろいろ支離滅裂だしめちゃくちゃポエミーです。すべて私個人の感じたこと、素人の感想なので矛盾だらけでも許してくれください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は去年と今年、桜を見に行きませんでした。行けませんでした。
この時期、多くの人がそうだと思います。

 

東京心覚はそういう人々に対する、刀剣男士からの、この上ない励ましと祈り、救いの物語だと受け取りました。

五月雨の「美しいものは人が作ったものだから美しい。……ならば、美しい草花、星や月。それらは人の手がなくとも美しいのではないですか?」という疑問に、太田道灌は答えます。

 

お花見の桜(草や花や星や月、なんでも)は、「それそのものではなく、それを見た人の心が美しい」のだと。

 

すると、「記録にも記憶にも残らなかったものは、最初からすべて無かったことになるのか?」という水心子の疑問がまた浮かんできます。

 

お花見されなかった桜は、誰にも見られなかった桜は、最初から咲かなかったことになるのか?

 

でも、「そうではあるまい」だと、平将門公は強く断言します。

 

 

桜は見ている人がいてもいなくても、咲く。

 

私たちも、お花見という特別なイベントがなくなっても、苦しくても生活している。

お花見がなくても、生活は続く。

 

お花見に行かなくても、どこかで桜が咲いたことを知って、少し笑顔になったりする。

 

平将門が惚れた花、

太田道灌が受け取った花、

天海僧正が永遠に咲かせようとした花、

勝海舟が江戸に咲かせた最後の花火。

 

それはこの2020年から続く困難の時代の中での桜と、それを見ないことを選択しそれでも苦労しながら生きて生活している人々そのもののことなのではないか?と受け取りました。


桜も人も刀も、全部同じで、みんなこの時代に苦しみながら生きている。


咲くことは生活することと同じことなのだと。

 

でも、一方で桜と人々には、完全にそれらを分ける線があります。


見られるものと見るものという線。

 

それは、舞台の上にいる刀剣男士たちと我々観客との間にある、見えないが確実にある境界線とほぼ同じものです。

 

刀ミュに第四の壁と呼ばれるものはない(私の認識です)ですが、それでも舞台の上で表現するものとそれを観劇するものという区分けはあります。


つまり、芸能をするものとそれを見るものを隔てる線です。

 


線。


勝ったものと負けたものを分ける線。


人と人ならざるものを分ける線。


国と国とを分ける線。


自分と他人を分ける線。

 


平将門公は「歴史とは勝ったものが語るもの。わしは負ける。だが、だからと言ってわしがはじめからいなかったということにはなるまい。」と、勝ったものと負けたものの区別があることを知りながら、だからといって両者は本質的には違わず同じものだと、どちらもただ生きていた人だと言います。

 

歴史には残らなくとも、そこで必死に生きていた人々は確実に存在する。つまり「線はあるが、両者は同じもの」だと。

 

 

天海僧正が張ろうとした結界は、江戸という町を守るためのものでした。

 

三大怨霊である将門公を封じ、人々が安寧に暮らすことができるようにするための防御壁を築こうとしました。

 

人々が生きるために必要だった、あちらとこちらを分ける境界の線を、僧正は作り出そうとしたわけです。

 

線は両者を分つために必要なもの」であるという認識だと思います。

 

 

勝海舟はその結界があることを知りながら、それを広げようとしました。

 

日本という島々を一つの国家にまとめようとし、人々の間にある線を取り払おうとした。

 

確かに今までは必要だった線ですが、この時代の流れに沿うには、その線は邪魔なものになっていました。

 

だから、「線はもはや不要」とし、その線を断った。

 

次の時代を迎えるための手向けの花火を、海舟は咲かせたのだと思います。

 

 

 

一方で刀剣男士達も、その線について様々な想いを抱きます。


ソハヤや大典太は、霊力が強くその力でもって江戸の町を守る結界を張る役目をしっかりと果たしていました。

 

人々、街、国、そして"自己"。

 

何かを守るために必要なのが、それらを分かつ線。

 

そういう「線が必要な時もある」のだと、今までの自らの役割から理解していました。

 

 

村雲の「正義とか悪とかどうでもいい、どうせ勝った方が正義なんだろ」という言葉は原作ゲームでも彼の口癖というか考え方としてよく言われ、村雲のキャラクター性がよく伝わるものだと感じます。

 

この言葉は、さっきの将門公の言葉にも通じるものがあると思っていて「歴史とは勝ったものが語るもの」を少しすねたような言い方にすると村雲の「どうせ勝った方が正義なんだろ」になるのだと思います。

 

そしてさらに彼は、線を引くことをはっきりと「嫌いだ」と言います。

 

つまり正義と悪に本質的な違い(線)はなく、勝ったか負けたかでしかないと思っていて、その線を引くことそのものを嫌うのです。

 

 

線についての意見が真っ向から違うソハヤと村雲のこのやりとりは、個人的にとても印象的でした。

 

少し脱線しますが、村雲がゲームに実装されてから聞いたこの台詞も刀剣乱舞の大きな謎の一つ「歴史とは何か?」「歴史とは誰が作ったものか?」についての核心に触れるワードだと思って少しドキドキしていたのですが、東京心覚の物語上でこんな拾い方がされて感動しました。

 

 

そして今回の物語の中心人物、水心子正秀です。

 

映画のコマ送りのようにいろんな時代の風景をくるくると回っていく感覚に陥り、やがて自分の名前、存在、心、他者と己を分ける線も曖昧になっていくような状況に戸惑っていたのだと思います。

 

ですが、やがて、水心子正秀は「自分は水心子正秀だ」と自己を定めます。

 

自分を守るために、他者と自己を分ける線を引く。

 

誰かを守るための自分を守るために、水心子は線を引くことを決めます。

 

 

 

そしてずっと最初から最後まで、水心子のことを無条件で信頼し、「水心子はね、すごいやつなんだよ」と言い続けてきた清麿が、「よかった、いつもの水心子だ。」と笑います。

 

てんえど組のあの無二の親友感、お互いのことを無条件で信頼し、認め合い、決して依存ではなく、健全に頼り頼られ、信じぬく関係性、最高ですよね……。

 

当たり前といえば当たり前ですが、清麿はずっと一貫して水心子を信じています。

 

そのまっすぐで迷いのない姿勢は、水心子と対比するようで、しかしずっと寄り添っていることで、水心子の迷いも必ず晴れるのだと伝わってきます。

 

「踏む地があればこそ居場所見失える いくら迷子になろうと僕が探し出すよ」

 

「水清ければ月宿る 心もあれば魚も棲む かもしれないよ」

 

ずっと水心子のそばで優しく支え続ける清麿、この二振りもまた象徴的に舞台の前にいるこちらがわに、「例え迷ってもずっとそばにいる、支える」ということを暗に伝えているようで、良い……………………(語彙力)となりますね……。

 

水心子が、自分が感じたことをあれこれとちゃんと説明することはほぼないんですが、清麿は口数の少ない彼からきちんと真意をくみ取り、それを理解し、そして清麿自身も何も言わずにただそばにいて助け、支援するのもとてもいい関係性だと思います。

 

そして清麿、ずっと「前に行こう」「突き進もう」と結構ごりごりにポジティブでアクティブなのも最高に解釈一致ですね。

 

あと水心子のことを見つめる清麿の顔、ほんとにいい。いや全員の顔がいいですが。

 

祈り

 

やがて時代を巡り、江戸を形作った彼らの祈りを知った水心子は、"線"と"花"を理解します。

 

線は分けるもの。

 

そして花は咲くもの。


「ここに来れた人、来れなかった人、来ないことを選んだ人、どちらも、どうか傷つかないで欲しい。悲しまないでほしい。その選択は、どんなものであっても尊いものだから。」

「どんなものであっても尊いその選択を守るために、少しでも誰かを笑顔にするために、私たちは……すべきことをする

 

すいません多少要約しましたが、正直、この台詞にこの物語の伝えたいことがすべてが詰め込まれていると思っていて、配信を見返すたびにここでぼろぼろ泣いてました。

 

刀ミュは第四の壁がありません。

 

一部では物語が演じられますが、二部では完全に観客を審神者として扱い、対面芝居というかたちでずっと舞台上のキャストは刀剣男士であり続けます。

 

というかこれまで一部でも、これは観客の審神者に見せる物語なのだという要素は随所に見られたので、本当こういう台詞は見ている人の心にダイレクトに入ってきます。

 

客席に向かって、これを見ている人に向かって言っているのだと、ここで唐突に理解させられ、そしてその力強い励ましの言葉に毎回心がめちゃくちゃに揺さぶられてなんかめちゃくちゃ泣きたくなってくるんですよね、最高ですよね……。

 

このシーンは、ずっと誰なんだ?と探していた女の子の正体(?)に、水心子が気づいたところでもあります。

 

その女の子は、何か偉業を成し遂げたり歴史に残る発明をしたりしたような子ではなく、「そこで頑張っている子」だと。

 

歴史を作ってきたのは後世に名前が残るような偉人ばかりではなく、そこでただ頑張って生きていた人々も確実にいたのだと、そして偉人たちもその名もなき人々を愛していて、その「愛しいという心も、歴史を繋いでいたんだ」と。

 

そのことに水心子は気づいて、優しくこんな言葉をかけるのです。ボロ泣くじゃん。

 


つまり刀剣男士たちは、苦難の中で、苦労しながら我慢しながら生活している"頑張ってる子"たちを少しでも応援しようとしていて、そういう言葉を、直接的に我々審神者(観客)に言ってきたわけで、なんていうかここで途端にこちらにフォーカスが当たってくるというか、むしろめちゃくちゃわかり易くて逆に面食らうというか、急に、あ、そういうことなんだ、とこのシーンで我々も気づかされるのです。

 

そしてその言葉も、決して押しつけがましくはなく、頑張れという励ましでもなく、「その選択をしたことに、自分自身に、傷つかないでほしい」「我らは、ただすべきことをする」という祈りだけなのです。

 

 

(刀ミュ本丸の)刀剣男士がすべきことは、観客席の審神者たちに向かって、舞台の上で歌い、踊り、語らい、それを見て元気になってもらうこと。

 

そのことをあの本丸に顕現した男士たちは(おそらく今回の東京心覚に出陣したメンツ以外でもみんなが)心から自覚し、目指しているのだと思います。

 

刀ミュは毎回それを目指していて、それが今回は「奪われた……!時間……?いや、意識か!」ということだったんだと思います。

 

このご時世で、何かイベントごとに参加する、刀ミュを見るということそのものが何か強い意味を持ってしまって刀ミュ本丸の目指していたもの、すべきことが果たされづらくなっていた。

 

それを今回の東京心覚という作品で、「祈り」「問はず語り」というかたちで、刀剣男士による対面芝居というかたちで、原点に立ち戻って表現されたのだと思います。

 

個人的にですが、とてもミュージカル刀剣乱舞らしい作品だと思いますし、このご時世の中「すべきことをする」という答えを一つ出してくれたことが、刀ミュのいちファンとして、本当に涙が出るくらいうれしいことでした。

 

問はず語り

 

線の向こうで、すべきことをすること、

 

線のこちらで、苦難の中でも生活をやめないこと。

 

それはどちらも、お花見がなくても咲く桜と同じだと感じました。

 

 

誰もいなくなってしまった世界で、実のならない山吹を、お腹が膨れるわけでもない花を、それでも「必要だと思う」と植えた桑名。

 

人は誰もいなくなってしまって、道も必要なくなってしまった世界。畑を愛し人々を愛し愛されてきた桑名江という刀にとってそこはひどく恐ろしく残酷な世界ではないかと思うのです。

 

しかし桑名は、いつも通りの様子でまた新しく畑を作ろうとしています。

 

あの世界に名もなき草が生えていることはひどく象徴的で、人々はいなくなってもいなくなったわけではないのだと、より人に近い土着的な信仰のもとにあった桑名はきっとわかっていたのではないでしょうか。

 

「世界はぐるぐるの中にある。人も、歴史も、刀剣も。」とは今回の桑名そのものを表すような名言ですが、誰もいなくなった世界でも、もしそれを見る人が誰もいなくても、そこに花を咲かせる意味はある。

 

そのことを最初から桑名は誰より理解していて、希望を捨てるなんてことは思いつきもしないで、ゆっくりじっくり雨を待ちながら、今日も畑を耕し、大地をノックし続けるのです。

 

桑名…………(感情)

 

そしてその植えた山吹がちゃんと咲いたかどうかも分からないし確認もしないのに、「咲いてるといいな!」と朗らかに笑う豊前

 

めっちゃくちゃに最高。

 

豊前は今回結構「居場所が分からねえのは、俺だって同じだよな」「存在してるのかしてねえのか、俺だって俺自身がよくわからねえ」と言います。いやほんと豊前、存在しててくれ……。

 

でも豊前自身はそのことを丸ごと受け入れているようで、「時は止まらない、だから走ると決めた。風のその先へ」と自分の存在の曖昧さごと受け止め、そして走り続けるのが豊前だと思っています。

 

そんなりいだあだからこそ、篭手切りは彼をりいだあと呼ぶのでしょう。

 

今回、顕現したての五月雨に「お前には歌だけ歌っててほしいよ」など、自分の役割や意味をまるまる飲み込んで走り去ってしまうような豊前は、桑名たちと同じようにその山吹を愛しく思いながら、ずっと朗らかに笑って、変わらず走り続けるのだと思います。

 

 

 

つまり例えこのミュージカルを見ていても、見られなくても、見ないことを選んだとしても、どんな選択をしていても、その選択は尊いものだよ、という意味がそこにはあるのだと思います。

 


東京心覚は、見る人も見ない人も見れない人も全てを慰めてくれる。

 

受け入れてくれる。

 

この苦しい時代、刀剣男士(舞台、芸能作品、イベントごとすべて)もつらいけれど、こうしていることが我らのすべきこと、だと。

 

 

そうなると最後、五月雨に歌を詠んでみますか?と言われて「俺も歌を詠んでみようかな。想像、”こうだったらいいな”ってことを……」という村雲の台詞もすごく印象的ですね。

 

村雲が線を嫌う、正義と悪を分けることを嫌うという重要なキャラクターであることと同じくらい、五月雨も何かを見て何かを想い、それを詠むということをする、この作品の見方として大切な役割を果たしてくれる重要なポジションにいることがすごくわかります。

 

「雲からこぼれる雨のように、溢れてくる想いを季語とともに歌にする」「美しいものを見て、美しいと思う心そのものが美しい」という観点を、とうとう刀ミュに降臨した俳句ガチ勢の五月雨がいたことが今回生み出してくれたと思います。

 

 

水心子の「私には世界が歪に見えていた。見上げる月はいつも三日月だった。ちゃんと丸いはずなのに。」は、あの女の子が何者なのかわからなかったこととイコールなのだと思います。

 

最初「誰もいなくなった世界は植物に覆われ、しかしそれもやがて枯れ葉て、世界は砂礫に覆われる」と、未来が見えずに絶望していました。

 

三日月の明るいところと暗いところ、それを分ける線が曖昧になって、明るいところしか見えていなかった。

 

それについては『~つはものどもがゆめのあと~』の髭切の「見えない部分もちゃんと月だったよ。しっかりと光を放っている。」がはっきりとしたアンサーだったと思います。

 

月は本来丸く光が当たっているか当たっていないかでしかない。

 

両者を分けるものは確かに存在するが、どちらも同じ、月の表面に違いない。

 

どうでもいいですけどこの伏線を2017年からマジで張ってたとしたらマジでやばいな刀ミュ……すごすぎ一生ついていきます……。

 

最初はずっと迷っていて混乱していた水心子が、三日月のやっていること、役割・呪いに気づき、三日月のしていることを理解し、そして出来るなら救いたい、と思うところで東京心覚のストーリーは一番の山場というか転換を迎えますが、ここでわかるのは三日月がしていることが、俯瞰で見ると、刀剣男士たちが守ろうとしている歴史そのものと同じなのでは?と考えられます。

 

というかもはや三日月=歴史そのもの。

 

歴史が、名のある偉人たちによってだけ作られているものではないとしたら、名もなき野の草、花のような、歌のような、誰でもないそこで頑張っている人々によっても作られているのだとしたら、三日月はそのことを最初から分かっていて、それを守ろうとしている。

 

三日月はこのミュ本丸の「すべきことをする」ということを最初からずっと貫き通していたのでしょう。

 

本当なら三日月の役割は呪い、あまりに力が強すぎるがゆえにそれは呪いとも呼べるもので、他の男士たちに分けられればいいのに、それができず、三日月はずっと一振りで役割を果たし続けている。

 

本当ならそれを助けたいのに、それはできない、なぜなら世界はそういう風になっていない。

 

……歴史も、恐らくそうでしょう。

 

歴史の中で名も何も残らない、そういう人々を光の当たる場所に出す、歴史を変えるということは最初からできないというのが真実だと思います。

 

三日月というものは、月の光の当たる部分のことでもあり、光の当たらない部分のことでもあります。

 

三日月は、歴史を守ろうとしているものであり、歴史そのものでもあるのだと、そういうことにも思い至ります。

 

(正直三日月のことはいくら考えてもまだまだ全然わからないので次回作からの刀ミュにもめちゃくちゃ期待しています。これからの刀ミュで三日月のこと少しずつ明かされていくとおもうとワクワクしますね……。三日月、救われてくれ……!)

 

 

 


時代の中で悲しい役割を背負わされた者たちや、歴史の中で戦に敗北していった者たちや、記録にも記憶にも残らなかった者たちは、いわばこの三日月の暗い部分であり、誰にも見られずとも、咲いて散る花。

 

本来なら月の光っている部分とそうでない部分であるために、そこに大きな差はなく、ただ必要があったために線が引かれただけであるのだと思います。

 

だから、このミュージカルを見ることも見ないことも、
この世界で頑張って生きている人たちとこの公演をしている刀剣男士も、
歴史の中で勝ったものと負けたものも、

 

どちらも同じく尊く、どちらも等しく愛しい。

 

 


そして最後に「これは問はず語り」と歌う刀剣男士たち。


「心に刻まれた風景」「心に覚えてる景色」つまり彼らの想いは、
「誰かが言った、探してくれと 誰かが言った、隠してくれと」「誰かが言った、覚えてくれと 誰かが言った、忘れてくれと」その矛盾するどちらもが、両方ともが同じように選択であり両方は同じように尊いものであると伝えたい。

 

この苦しい時代に生きる、そこで頑張っている子たちに、愛をこめて、励まし、祈り、想いを伝えたい。

 

ただそれは決して何かを強く決めつけたりするものではなく、ただそっと寄り添い、見守り、まるでそこに花が咲いているように素朴で謙虚でそして必死な、祈りだったのだと思います。

 

このミュージカルは、今の苦しい世界で頑張って生活している人々へ向けた、
いつも通り、主に笑顔になってほしいと歌って踊り続ける「すべきことをしている」刀剣男士からの「聞いて欲しかった独り言」の作品なのだと私は受け取りました。

 

脚本やキャストの方々、スタッフの方々だけでなく、この作品にかかわるすべての人々から、これを見る審神者だけでなくこれを見ないことを選択した審神者、そしておそらく刀ミュを知らないすべての人々までにも向けた、壮大で切実な祈りが、東京心覚にはこめられていると思います。

 

それはミュージカル刀剣乱舞という作品群すら飛び越えて、歌や芝居、芸能、イベントごと、今苦境にあるものごとや人々すべてに対するミュージカル刀剣乱舞からの一つの答えなのではないでしょうか。

 

 

 

 


桜は誰もいなくても咲きますし、人は花を見ずとも生きていきます。


だけど、桜は誰もいなければ美しいと思われず、人は何かを成さねば歴史に残りません。

 

美しいもの(芸能)は、誰かが見てくれなければ成立しない。


それでも、「自分たちは少しでも笑顔を増やせるよう、すべきことをする」と、誰も見なくても咲く桜のように、見る人も見ない人のことも両方を肯定して、今回の『ミュージカル刀剣乱舞-東京心覚-』という作品を作り、そこで歌い踊ることを選択した刀剣男士たち、この作品を作ってくださったすべてのスタッフさま方、

 

 

本当にありがとうございました。

心の底から、この作品に救われました。